1897年(明治30)1月に吉佐移民会社は、移民送出を実現すべく、社員の青木忠橘をブラジルに派遣し、ブラド・ジョルダン商会との間で交渉にあたらせた。同年5月青木から仮契約締結に成功の電報があり、吉佐移民会社の事業を継承した東洋移民会社と在横浜のブラド・ジョルダン商会代理人との間で正式の契約が締結され、政府の許可も下りた。ところが、第1回移民1,500人を乗せた土佐丸が神戸港を出発することになっていた同年8月15日の直前になり、「財政上の恐慌に遇へる為め契約を中止した」との電報が入り、移民は中止となってしまった(いわゆる「土佐丸事件」)。
この土佐丸事件以降、珍田捨巳と大越成徳の2代の駐ブラジル弁理公使は、ブラジルへの日本人移民の送出しに否定的な意見を持つようになった。1897年(明治30)11月、日本移民会社がリオデジャネイロのア・フィオリタ社との間で仮契約の調印にまで至り、次いで1901年(明治34)8月には同社のサンズ・デ・エロルツ(Sanz de Elorz)が来日し、各地の移民会社に移民募集の申し入れをしたが、いずれもそれ以上進展することはなかった。両公使が否定的な意見を寄せ、外務省はこれらを許可しない方針をとったためである。
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